後ろに続く言葉は、『皆馬鹿だよ』
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死ぬのが恐いと言う人が沢山居ると重いますが、どうなんでしょうね。
以前書いた
恐怖について
恐怖と未知と死
ここら辺の話を少しだけ絡めて話していきますね。
取りあえず、死が恐いのは、死=未知で、未知=恐怖だからです。
また、死が恐いと感じる時は、生に強く執着している状況の時です。
生きようと心の奥底から感じている時です。
現代の日本では、死という物を常に間近に感じて生きている人は少ないです。
だからこそ、たまたま、死という物を感じたとき、物凄く恐怖します。
では、死の反対の生きること”生”ってどうなんでしょう?
生について考えると僕は恐いです。
生きるということを考えるとき、必ず死についても考えます。
生きることと死ぬことはセットです。
生は、常に間近にあるので、生について、人は麻痺しています。
なので、生きることと、死ぬことを分離して考えるのが一般的になってしまっています。
生と死をセットで考えなくては、死については考えることができません。
では、生きるということはどういうことなのでしょう?
生きるということだけを考えることが出来るでしょうか?
難しいと思います。
死と生は、二つあってこそ意味をなすものだからです。
生だけの物、死だけの物はありません。
生=死です。
生=死と言っても同じ意味ではなく、生あっての死。死あっての生という意味です。
僕からすれば、死が恐いということは、生きることが恐いということです。
死は絶対訪れる。結局は未知が恐いんです。
生きるということも、同じようなものです。
何故、自分は今生きているのか?何の為に生きているのか?結局は未知が恐いんですよ。
ただ、生きることについては、無理矢理、理由を付けることができます。
恋愛するため、夢を叶えるため、etcetc...
じゃぁ、死ぬことに理由もつければ恐くないのでは?
自分が納得できるような死の理由を・・・。
一時期、僕は、この世の全てが嫌いでした。
この世は憎悪でしか出来てないと感じて居ました。
出来ることなならば、この世を全て壊してしまいたいと思いました。
それからしばらくの間、悩み、苦しみ続けました。
ある時、僕を見下ろしている奴が、この世は愛が溢れかえれば美しいと教えてきました。
それを知り、この世の全てを愛と呼ばれるもので埋め尽くせば良いと思いました。
どうすれば、愛で溢れた世界に出来るのかと、悩み、苦しました。
その矢先に、僕を見下ろしてる奴が、この世は愛と、憎悪、両方で出来て居るのだと教えてくれました。
その二つは、まったく同じものなのだと・・・。
全てを理解することは出来ないかもしれないけど、
それすらも知らずに、愛や幸福、不幸だの正義だの戦争だの語ってはいけないのだと教えられました。
今、僕は、それを破って居ます。
愛とか、幸福とか、不幸とか、正義とか、人間の死とか、そういうものを語ろうとしています。
人間は何であるとか、人間はどうしてとか、言葉では表現できないようなことを紡ぎ出そうとしています。
ハッキリ言って、この世のことを知りません。
僕は、何一つ知りません。
だけど、今は、何かに導かれて生きるっていうことに飽きてしまいました。
それじゃぁ自分が生きてるというとは言えないから。
僕は、この世の全ての物を愛する事が出来ません。
僕は、この世の全ての物を愛しています。
もし、この世を愛に溢れさせることが出来るとしたら、
この世はみんな心を失ってしまうから戦争は終わってはいけない。
今、僕自身はおかしなことを言っているのは分かっています。
でも、春が過ぎ去ったから、それくらいは許されるでしょう。
p.s.
少し前まで僕は、泣くことは愚か、笑うことすら出来ませんでした。
でも、今は泣くことも、笑うことも出来ます。
このブログを読んでる人は、
諦めんな。
自殺を止めようとか、生きる元気を与えたいとか、そういう訳じゃない。
これは、僕の趣味で言うことだ。
僕は、今、生きようとしてる人を見るのが趣味だ。
だから、諦めんな。
誰かが悲しむとか、苦しむとか、んなことはどうでも良い。
僕は、どこかの誰かって言う、あなた自身に直接の関わりはない。
でも、もしかしたらがあるじゃん。
この世に絶対はないから、諦めるな。
これが、今の僕の宗教かもね。
神様とか存在するなら、そいつぶん殴ってボコボコにするけど・・・。